ラブリィィィbombハァトと風間八宏

ラブリィィィbombハァト サンフレッチェ広島
ラブリィィィbombハァト









ラブリィィィbombハァト 清水市商高時代、大滝雅良監督をして「教える事は何もない」と言わしめるほどの選手で、大滝がこれまでの指導法を変えるほどの影響を与える。3年連続で静岡県高校ベストイレブンに選出される。
1979年日本開催のFIFAワールドユース選手権日本代表に高校生ながら選出。仙台向山高の鈴木淳、帝京高の名取篤とともに高校生トリオとして名前を馳せる。
筑波大学在学中の1980年に日本代表に選出され同年に香港で行われたスペインW杯アジア1次予選にレギュラーとして出場。卒業後は海外でのプレーを希望し、日本サッカーリーグには所属せず、茨城県リーグ4部のジョイフル本田に所属していた。ロサンゼルスオリンピック予選終了後の1984年、ドイツのバイヤー・レバークーゼンに入団。日本人3人目のプロ契約を結んだ。その後もドイツの2部リーグのクラブを転々とし5年間に渡って活躍した。
1989年、ドイツから帰国すると日本サッカーリーグ2部のマツダSCに入部。翌1990-91シーズンに1部復帰を果たす。1992年、Jリーグ発足に伴ってサンフレッチェ広島として新たなスタートを切ると、Jリーグ開幕戦、開始1分でチーム第1号ゴールと日本人選手Jリーグ初ゴールを決めると広島スタジアムチアホーンのけたたましいファンファーレに包まれた。同年、NICOSシリーズの第1節においても、リーグ戦で日本人初めての直接FKによるゴールを決めた。以降も多彩なパスで中盤を操り、またキャプテンとしてチームの精神的支柱となり活躍。1994年のサントリーシリーズ優勝にも貢献した。
その後、1995年にサンフレッチェ広島を退団。再びドイツに渡り、レムシャイトに復帰するが1年で退団。
現在はフジテレビ『すぽると!』などで解説を務めている。切れの良い語り口で戦術解説に定評がある。
また監督ライセンスを取得して、1997年から桐蔭横浜大学サッカー部の監督を務めていた。2004年にJFA公認S級コーチライセンスを取得する。2008年より筑波大学蹴球部監督。
2006年8月には日本サッカー協会特任理事に就任。その後2008年7月の役員改選で「特任」が取れ正式な理事となった。